ところで、じゃあそれがとてもすばらしいということがわかったとして、それを今日明日にでも自国・自学の図書館に持って帰って、直輸入で導入してやろう、てなったときに、果たしてそれが可能かどうか、効果があるかどうか、なんていうのは、ちょっと落ち着いて考えないと甚だ疑問である、ということになってしまいますよね。
そりゃそうだろう、とは思うんだけど、これが意外と、短期でだっと行って、ばばんっと見せ付けられて、うひゃぁと驚愕して、すぅっと日本に帰ってくる、ということをやると、なかなかそういうふうな落ち着いた、というよりは冷めた目で見るなんてことは難しいですよ。目新しいものなり違う世界なりをいきなり冷めた目で見る、ような達観した人なんて、そうそういないでしょう。それができるとしたら、ある程度長いこと滞在してからこそ、だと思うのですよ。
ある程度長いこと滞在する、ちょっと冷めた目で見ることができるようになる。そうすると、一見輝かしいばかりと思われていた先進的・専門的な図書館活動・運営の、あちらこちらにほころびのように見えるマイナス面に気付いてくる。或いは、じゃあそのすばらしい活動や運営は具体的にどのようにして成り立っているのか、ということを目を凝らしてみたり、裏や横や斜からのぞいてみたり、逆算的につるをたどってみたり、土台をちりちりとほじくってみたりすると、ああ、なるほど、そもそも図書館以前に、この大学が、この社会が、この国の文化・習俗が、この土地の人間性が、こうこうこうだったから、この図書館が成り立ってるんだな、ということがやっとわかってくる。
ミーティングでは誰がどう発言し、物事がどう決まっていくのか。
図書館で使う膨大なお金はいったいどこから湧いてくるのか。
そもそもこの国の人にとって”寄付”や”基金”とは何なのか。
人を雇うとはどういうことで、人が働くとはどういうことか。或いは休むとはどういうことか。
学生さんは授業でどんなタイプの課題を与えられ、それにクラスメイトとどう取り組むのか。
そもそも学生さんはどこに住んでるのか、何を持っているのか。
ふだんから何をどれほど飲み食いし、どれほど機関銃のようにしゃべるのか、どれほど他人に対して遠慮しないのか。
24時間開いてるコンビニなんか1件もない大学街において、図書館の24時間開館だとか図書館カフェだとかの持つ意味は何なのか。
いったいこの国のセキュリティ意識といい加減な油断さとのバランスはどうなっているのか。
地震が起こらない土地では、書架の積み上げ方というのがどこまで大胆なものなのか。
赤信号なんか誰も守ってる風に見えないのは、いったいどういう了見から来るものなのか。そんな人たちにとって、カタロギングルールとはどういう位置づけのものなのか。
時間を守る、というときに、どこまでだったら守っている範囲になっているのか。一度口に出して言ったことは守られるという前提は、どこまで有効なのか。
労働者はどんな顔して接客し、客はどれだけの行列に待たされることに慣れっこになっているか。
それでいて自販機を誰も使おうとしない有り様っていうのはどういうことなのか。
なぜ2回に1回くらいの食事が、手づかみでサンドイッチという羽目になってしまうのか。箸を使わず食事した後で、この人たちは図書館で何を手に取ろうとしているのか。
注文したはずのチーズがサンドイッチに入ってないと訴えたときに、相変わらず無愛想なままでぷいと厨房に戻るのはなぜか。
そして、こちらが自分から言わなければ、ドレッシングどころかマヨネーズも塩もかかってないサンドイッチを食べる羽目になるようなお国柄において、サービスとはどういうものと考えられているのか。
というようなコテンパン(笑)な経験をしたら、図書館サービスなり運営なりのある側面だけを切り取るだけでもどうかと思うのに、ましてやそれを生のままで直輸入しようなんて、どんなハナモゲラ俳句だよ、てなるよね。
ちょっと書きぶりがしつこくなってしまったけど、たとえ先進的または専門的なサービスや制度でも、そのまま日本の大学図書館に適用できるわけではない、ということは、長期・滞在型研修の経験者であれば少なからず語っておられること、だと思うのですよ。
重要なのは、目に見えているサービスや制度そのものではなく、それによって利用者に何を保証しようとているのか、資料をどう守るつもりなのか、のほうなんだとしたら、その背景を理解することができれば、同じノリで我々の理想を実現しようとするにあたって、じゃあお箸の国・ニッポンではどう動けばよいか、ていうのが自ずとわかってくる、と、思いたい。希望。


